pinappleの日記

座右の銘 あればあるなりに、なければないなりに。

護摩堂山「あじさいまつり」

小2の息子と護摩堂(ごまどう)山に登ってきた。
ちょうど6月20日〜7月20日が「あじさいまつり」ということもあり、人が多かったなぁ。
http://www.tagami.or.jp/kankou/gomad/goma_top.htm
http://www.town.tagami.niigata.jp/info/bunka/ajisai/index.html
まあ、子どもの足で登山口からおよそ30分くらいで山頂に着いた。目的は実はキャッチボールだったのだけれど山頂は意外と狭く、人出も多くてそんなスペースなんてなかったんだけどね。
ところが意外にも頂上からちょっと下がったところにちょうどいい広場みたいなのがあってしかも人がいなかったのでここでしばしキャッチボール。前より少し上達してたね、よかった。:-)
 ついでにと言っては失礼だが「あじさい園」の紫陽花も堪能してきました。いろんな種類の紫陽花があったし色もとりどりで結構楽しめました。アップした写真は登山道の道端に咲いてた奴でなんか葉っぱに穴が空いてたなぁ。

気になったのは帰り道見かけたS字状というか流しの配水管のような形の木です。いったいどういう経緯でこうなったのか、にしても逞しい木だなあ、と感心しました。
だけどよくみるとこの登山道って車で荷物を運べるように道をかなり強引に拡張してあり、そのために拡幅した道端の木々はほとんどといっていいくらい根っこが丸見えになっている。前述のS字形状の木もおそらくこういった人間の仕業なんだろうなって思うとどうしてこうやっていつも人間って奴は自分勝手な生き物なんだろうって思う。
それでいて地球に優しいって笑わせるなって感じだよね。散々地球を汚染した挙句に優しいってなによ、って地球の神様がいたら失笑されそうで怖い。

自分も含めて人間ってどうしようもない生き物だと思うけど、そんな中にも尊敬できる人もいるんだなって少しは思えたのは、白洲次郎と鈴木新吉についての本を読んだから。
勢古浩爾の書いた『白洲次郎的』を読んでで白洲次郎が、「どこまでも首尾一貫している。正義感が強く、曲がったことがきらいで、ウソをつかない。虎の威を借る尊大な人間を蛇蝎のごとくきらい、それでいて下積みの人間や女や子どもには無類にやさしい。」というのはいい。だけどこの本を読んでたら、三浦綾子の『岩に立つ』に書かれている棟梁 鈴本新吉(本名:鈴木新吉)のことが気になってしょうがない。三浦綾子も男の中の男と言及するこの鈴木新吉とは何者か?!これが知りたくて早速読んだ。いいよ、いい!途中何度も涙が込みあげてきた。まあ、この人の男気にただただほだされていくって感じなんだけど、その中で特に印象に残ったのは以下のような箇所かな。
 何々組などという名前もない一介の棟梁にもかかわらず、大建築業者を尻目に裁判所の指名業者になり、高裁から派遣されてきた監査の人に「これだけの堅い官舎は見たこともない」と言わしめる。
それも当然であろう。棟梁曰く
「土台もそうだが、あっしは人目にふれぬ梁なんぞは、特に吟味した太い材を使いましたからねえ。人が見ていようがいまいが、キリストさまが見ててくれますからねえ。どんな仕事にも励みが出るっちゅうもんです。」
うーん、全然わからないだろうなあ。やっぱり読まないと。とにかく半端じゃないってことなんだけどね。
端的に言って白洲次郎は、プリンシプルにひたすら忠実で自分を見失わない。一方、鈴木新吉は学歴はないけど人間というものを表も裏もとことん知って、それでも人間を信じている。そんな自分に確固たる自信を持ち続けた人たちなんだろうな。そんなことを思わされた。